上野牧(かみのまき)野馬除き土手調査第3弾! 金乗院(こんじょういん)から長崎1丁目四重土手、天形星神社を歩く
前回は、金乗院(こんじょういん)まで歩きました。 今回はその続きです。 金乗院近くの細い道を歩くこと10分ほど、前方には樹木で覆われた茂みが確認されます。迅速図と現在の地図を照合したところ、長崎一丁目の野馬土手と思われるところにつきました。周りは住宅地になっていますが、野馬土手のようなところは確認できますが、堀などは見当たりません。土手にある樹木の茂みをかき分けながら土手の上まで来ましたが、やはり堀やその他の土手を確認できませんでした。取り壊されてしまったのでしょうか。ここにしかない四重の野馬土手。茂みが激しいので奥へは進まずいったん下に降りて土手を確認することにしました。しばらく続いているのを確認しましたが、やはり野馬土手であることは間違いありません。この北総台地にいくつかある牧でもこの四重土手は大変珍しいものだそうです。しかし、なぜ4重の野馬土手だったのでしょうか。明確な答えは見つかっていないようです。 しばらくしたのち、この野馬土手について、何か記載されている文献がないか探したところ、流山市教育員会発行の「流山市史研究第7号」(1990年2月号)に「野馬土手」秦野長蔵氏が書かれている文献を発見しました。そこにはまさしく長崎の四重土手に関する絵地図とともにコメントが添えられていました。やはり4重土手の理由はわからないようです。 次に、「天形星神社(てんぎょうせい神社)」に向かいました。この神社の創建は寛文2年(1662年)創建され、祭神はスサノウノミコトです。野々下や長崎の鎮守さまとして古くから村人などから慕われた静かな森の中に佇む神社です。本殿の左側に、社がもう一つ鎮座しています。 社名は、「石見社」です。「いわみさま」と呼ばれ寛政年間に野馬方総取締まりをされた旗本岩本石見守をお祀りした社です。この由来には次のように記載されています。小金牧の野付の村として長崎、野々下の両村は、隣接した牧内に野馬入り新田を開拓することは多年の願いだった。この願いを叶えたのが岩見守で、糧秣の育成、松、杉、楢等の植林がなされ薪、炭などを生産し大きな成果となり豊かな村となったため、村人は「岩本大明神」の石碑を文化9年に建て、明治時代になりこの地に社を設けた。と記されています。 今回は、野馬土手だけではなく、それにかかわる「シシ落とし」や牧周辺に住む農民の姿を感じさせる有意義な実踏でした。
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