渡辺尚志館長講演内容:『江戸時代の松戸河岸と鮮魚輸送―銚子と江戸を結んだ江戸川舟運』

更新日:2024/04/23
掲載日:2024/04/12

 4/12金、松戸市森のホール。当日の配布資料はA3・片面5枚(内2枚は地図)。以下、主な内容です。*4/13付、講演会報告のイベント紹介もご覧ください。

◎講演内容のレジメー

はじめに―16世紀中頃、流路変更工事により、関宿で太平洋岸へ流れる利根川と東京湾に流れる江戸川とに分流された。

1 河岸と鮮魚輸送ー河岸とは、河岸問屋とは。鮮魚輸送/船運ルート/鮮魚街道(なまみち・なまかいどう)。松戸みち/船運・陸路併用ルート。

2 松戸河岸の仕組み―流通の中継基地/松戸宿は宿場・河岸・農村の複合体。平潟河岸・納屋河岸・下河岸の3河岸。江戸川改修工事による流路変更/河岸の変化。

3 河岸問題が直面したさまざまな事件―①積み荷の抜き取り事件、②松戸宿と根本村の争い、③中川番所での荷物差し押さえ。

おわりに―舟運が物流の大動脈/鮮魚輸送ルート。河岸問屋の機能と諸問題。

◎講演から一部紹介―

●江戸時代の物資輸送の主役は、舟によるものでした。馬1匹で米俵2俵、120㎏なのに、小型船で米25俵、大型船なら300~1200俵を運べます。今日のお話は、江戸川と利根川の舟運についてです。江戸時代の1654年に渡良瀬川の下流の利根川が、今と同じ関宿で太平洋側へ利根川が、太日川(ふとひがわ)と呼ばれた江戸川が東京湾側へと、流路の付け替え工事が完成します。何故かというと、江戸という大消費地へ、物資の輸送が必要になったからです。(栃木・埼玉・千葉・江戸の地図を示し、流路の変更や河岸の場所を紹介へ)

●荷物輸送の中継拠点として、河岸(かし)が発達し、最初は年貢米輸送だったのが民間の商品輸送が中心になります。18世紀、19世紀には、大消費地の江戸へ輸送されていきました。江戸からの物資も運ばれもしていきます。銚子や鹿島灘で獲れたタイ・ヒラメ・マグロ・サバ・ブリなど海産物は、銚子から利根川を北上し、関宿から江戸川を下り、新川(しんかわ)・小名木川に入り、隅田川から日本橋のたもとの魚河岸に運ばれました。この舟運ルートは遠回りです。

●それよりも、利根川の途中から短い距離で鮮魚を運ぶルートが、いくつもできました。そのひとつが、木下(きおろし)から荷をおろして鎌ケ谷-八幡(やわた)から本行徳へ。本行徳で再び舟で新川・小名木川・日本橋へというコース。また、布佐から手賀沼の南岸から幕府領の小金牧の中を横切って金ヶ作から松戸へ魚を運んだりしました。行徳みちの難点は白井・鎌ヶ谷・八幡の宿場で別の馬に荷物を取り替えねばならず、時間もかかります。その点、松戸みちは布佐からの馬は直行で松戸宿へ鮮度よく運べます。18世紀中には、松戸みちが主要な鮮魚街道(なまみち)となります。

●1日目夕方、銚子を出発した船は、2日目朝、利根川の布佐に着き、陸路を鮮魚街道から昼に松戸着。松戸の河岸から(高瀬舟にて)夜には日本橋へ、3日目朝には魚市で販売へ。また深夜,鮮魚街道を松戸まで運び、夜中、船で日本橋へ、そこで朝市へという運びもあった(道中や日本橋の浮世絵、挿絵の紹介もあり)。

     ▽             ▽              ▽

 ●(以下、休憩をはさみ、)松戸河岸にあった「平潟河岸(ひらかたがし)」、「納屋河岸(なやがし)」、「下(しも)河岸(渡船場河岸)」の3か所の紹介、河岸問屋の青木源内家と梨本太兵衛家、鮮魚扱い量の例示、河岸問屋が直面した①積み荷の抜き取り事件、②松戸宿と根本村の争い、③中川番所での荷物差し押さえなどの事件の顛末を紹介。{まとめ}として江戸時代の松戸河岸が重要な中継拠点だったこと、河岸問屋が河岸の内だけでなく外部にも、リーダーとしてしっかり存在していたことを強調される。  (聞き手・松尾)

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