講演会報告:{金町製瓦株式会社と松戸―ヒト・モノ・カネ」中西啓太氏

更新日:2023/10/08
掲載日:2023/10/01

 9月30日土曜・午後、博物館講堂で中西啓太・東京大学文書館准教綬による「明治期江戸川を行き交うヒト・モノ・カネー煉瓦製造業者 金町製瓦(かなまち・せいが)株式会社と松戸」という講演会がありました。30人を超す、近代史に興味のある熱心な方々が聴講された2時間でした。館主催の{歴史を語る}のひとつです。

 松戸市の西側の江戸川を挟んだ対岸、葛飾区側の金町に明治時代の中期―明治21年(1881)、近代的なレンガ工場が稼働した。この工場をめぐる事例を発祥から合併・移転までの研究発表でした。金町製瓦(せいが。レンガ製造)会社は、大正7年(1918年)に吸収合併されました。明治維新以降、日本の産業の近代化はどのようにすすんだのか?という実証。

 一つの工場を具体的に設立から合併までの約40年間を捉え、日本の資本主義の初期段階、さまざまな角度から、追跡してみた報告でした。なぜ金町にレンガ工場ができたのか、どういうヒトたちが出資し、そこに働く労働者の実態や松戸との絡みは?、江戸川の河川の役割は?、江戸川の改修工事からの影響、渋沢栄一らの「日本煉瓦(れんが)製造株式会社」(群馬県深谷市)との比較は?、を紹介されていきました。                             〇現代の私たちにとって、河川は障害・遮断のイメージがあるが、ひと時代前までは、物資の輸送、ヒトの往来には重要な役目があった。金町―松戸間は水戸道中として歴史的にも、関所もある往還の場所であった。戸定邸からの徳川昭武の写した遠景写真に工場が見える。江戸川沿岸の新旧の地図比較。                              〇明治維新後、身分制が解放された。人々は、職業も移転も自由になった。東京府南葛飾郡金町村は主に農村地帯であったが、瓦を焼いてきた生産地があった。ペリー来航を機にレンガが導入され、同じく土からの製造ということで取り込みやすかった。東京の銀座の煉瓦街、官庁庁舎へのレンガの需要が高まった。近郊の小菅(こすげ)のほうが、早くに煉瓦製造を行っていた。金町は近い位置。                              〇金町にできたレンガ製造工場には、「ホフマン窯型」という新設備が利用された。量産、品質ということで近代化した。この近代工業化は、24時間の稼働、男性労働者の需要となり、松戸からの通いや寄留者も船頭もあり、ヒトの働き方を変えていった。原材料の土をめぐる、農村・田畑からの利用とその取引実態。                                    〇明治中期、株式・株券の概念や実質が普及していないため、カネ・資金調達=株式のほとんどが、知り合い・縁故・地縁・人づてだった調査結果。 地域の顔役・富裕層による、ヒトづての資金集めであった実証の紹介。出資者の氏名・地域表。給料の40等区分表の例示。                                  〇ヒト・カネで松戸との交流がみられたことだった。一つのレンガ工場をめぐる、栃木からの人脈、親方による働き手の掌握、船頭たちの仲間のつながり、そうしたヒト・モノ・カネの流れは、時代とともに変化せざるを得なくなっていく。歴史の事例紹介として、煉瓦製品に係る品質の通達文書、船輸送での事故発生時の嘆願書、不正や乱暴への文書例を示す。 (記録・松尾)

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