報告:蔦屋重三郎の仕事に迫るー鈴木俊幸教授講演/大河tv『べらぼう』から
来年1月から、大河ドラマは『べらぼう~蔦重栄華之夢噺』(つたじゅう・えいがのゆめはなし)が始まります。ドラマの舞台となるのは、江戸時代中期から後期の吉原・日本橋です。そこで活躍した”本屋”の”つたや・じゅうざぶろう”という町人。47歳、脚気で亡くなります。そういう実在の人物伝になります。大河64作目、初めて、この時期・戦場のない・出版人の題材になります。 時代考証を担当される鈴木年幸・中央大学教授が、台東区べらぼう活用推進協議会顧問として{蔦屋重三郎の仕事に迫る}と題した講演を、2時間、話されました。12/1(日)台東区生涯学習センターホール、300人満席。 ●1,蔦屋重三郎とは何者か―1750年正月、江戸新吉原で生まれ、二十歳過ぎに新吉原の大門(おおもん)の手前、身内の茶屋の店先を借りて貸本・小売りの本屋「耕書堂(こうしょどう)」を開業。1775年(安永4)から、年二回発行されていた吉原のガイドブック『吉原細見(よしわら・さいけん)』を手掛けることになる。それまでの鱗形(うろこかた)屋版より、誌面の工夫、ページ減、安くして、好評に仕上げていく。*そのちがいを映像・実物を示しながら、詳細な説明がありました。”蔦重なる人物像の紹介”もあり、{風流もなく文字もなけれど、諸才子に愛顧せられた}と。さらに、彼の出版への考えが、単に本を売るということから、吉原全体を広告するという地域活性の手段であり、しいては蔦重店の広告になる、という発想の紹介へ。 ●2,新吉原時代ー二十代後半から、遊女評判記、娯楽本の戯作なども出版。他所の本も手堅く売りながら、書き手・描き手・版下の彫り・刷り手を獲得し、育てていく。大流行しだした浄瑠璃の富本節(とみもとぶし)では、独占の台本・手習いの教本を発行し、売り上げを伸ばす。*当時の出版業は、木版という工程であり、その工賃や紙代が多額であり、資本力を必要とされたこと。そこで、吉原の茶屋や妓楼が販売にもつながるよう手掛けた。学術・考証的な重たい分野の「書物問屋」と、草紙・浮世絵の軽い分野の「地本問屋」の成り立ち、当時の出版文化の説明へ。 ●3,江戸日本橋進出―天明狂歌・戯作。1783年(天明3)9月、33歳、日本橋通油町(とうり・あぶらちょう、現・大伝馬町)へ進出。それまでは、詠み捨てられていた狂歌を、戯作同様に出版することで、爆発的な流行に火をつける!。狂歌人気の沸騰、役者や戯作者なども参入し、狂歌の世界と戯作の世界との作者が重なるようにもなる。喜多川歌麿が蔦重専属アーチストとしてデビュー。天明5年、黄表紙16点を出版。春町・喜三二・京伝・政美・政演(まさとら)の作。*天明3年から、4・5年間は、狂歌・戯作の世界がもっとも生き生きしていた。一方、天明の大飢饉や打ちこわしの時代へ。アメリカ合衆国の独立は1783年。 *講演時間は、蔦重が日本橋へ進出し、書物問屋にも認められたところまで、となりました。以降、1787年(天明7)、松平定信の寛政の改革、91年41歳のとき、出版規制で財産半分没収、京伝は手鎖り50日。それでも、歌麿の美人大首絵の浮世絵の発刊など、”江戸のメディア王”として活動等は、事項の読み上げで終わりました。 (記・松尾―日曜の大河テレビ、22年『鎌倉殿の13人』鎌倉幕府2代執権北条義時、23年『どうする家康』徳川家康の幼少期から大御所までの一代記、ことし24年は『光る君へー紫式部・源氏物語』平安貴族の世界、摂政・藤原道長との交流、自らの才能と努力で懸命に生きた女性、書くことを愛した女性、でした。) |